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グローバルって、なんだ?

 少し前の話になってしまうが、小誌5月号で「『グローバル』って、なんだ?」という小特集を組んだ。「グローバル人材」とはいったいどういう意味なのか、世界とつながって働く人たちの実際の姿、国際教育に力を入れる大学の事例などをまとめているので、将来の進路として国際的な職業を意識している受験生の皆さんにはぜひ読んでいただければと思う。

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 さて、ここで書こうと思うのはこの小特集の「『グローバル』って、なんだ?」というタイトルについてだ。記事の前段にも書いたのだが、世間にはどうも「グローバル人材=英語が話せる人」という認識が独り歩きしていて、これからは英語ができないとまずい、留学くらい行っておかないと将来がない、という不安が子どもや親たちを煽っているらしい。逆に、英語さえ話せれば、留学に行っておけば何とかなるといった雰囲気も感じられて、それはちょっと違うんじゃないかという思いを反映したタイトルであったのだが、そんな思いを強くするようになったある出来事について、書き留めておきたい。

 もう10年近くも前の話だが、仕事を通じてある人と知り合いになった。仮にAさんとしておこう。詳細は伏せるが、Aさんは英語教育を通じていわゆるグローバル人材を育てる仕事に長年携わっていて、その世界ではちょっとした有名人でもある。しばらくしてAさんは私のFacebookアカウントに友だち申請を送ってきて、私のニュースフィードには彼の投稿やシェアが頻繁に表示されるようになった。私たちは時おりコメントも交わしていた。

 AさんがFacebookでおかしなことを言い始めたのは2011年3月11日に起きた東日本大震災から後のこと。翌日から発生した東京電力福島第一原発事故のことも含めて、TwitterFacebookなどのSNSが数限りないデマの増幅装置として働いてしまったことは、ご記憶の方も多いだろう。残念ながらAさんその人も、デマの増幅に加担するひとりとなっていた。「大飯原発再稼働に反対するドイツでのデモ」と称するあからさまなコラ画像を彼がシェアしたときには、さすがにシェアを削除することを勧めるコメントを入れたのだが、彼は画像の内容がデマであることは認めたものの、シェアを削除することはなかった。

 その後、彼の興味は震災・原発から別なトピックに移ったようだった。決定的だったのは、ある日本の政治家がコップの水を口にしている写真をシェアしていたこと。その所作を取り上げて、この動作は某国人のマナーである、したがってこの政治家は日本人ではなく在日外国人であると決めつけるものであった。ここまでくると、もはやかける言葉もない。私は黙って彼のアカウントをブロックするほかなかった。残念な思い出だ。

 Aさんは当然自身も留学経験があり、米国の大学で学位も取得している。アメリカでの学生時代、そこには上で取り上げた某国からやって来た学友も必ずいたはず。そんな彼が、露骨で稚拙なレイシズムをすんなりと受け入れるようになってしまったのはなぜだろう。

 ちょっと例が長くなってしまったが、国際的な人材教育にあたって「英語力」を前面に出しすぎることへの個人的な疑問がこういうところにある。もちろん、英語を運用する能力はこれからの国際社会に入っていくためのツールとして絶対に必要。そこはおおいに賛成だ。しかし、英語と同じくらいに、大人として身につけるべき資質については忘れてはならないと思う。それは科学の基礎知識や歴史学、多様性に対する理解など、一般に「教養」と呼ばれるものではないかと思う。教養はそれを学ぶ人の中に、生半可な意見には流されない柱をつくる。逆に、柱を持っていない人の心はちょっとした出来事や意見を前に右へ左へと揺れ動き、気がつくとトンデモない場所に立っていたりする。

 小誌にもグローバル教育に関する情報のニーズは強い。志のある受験生が将来、スキルと教養を十分に身につけて、世界で尊敬される人材になるためにも、バランスの良い情報を提供できるよう心がけていきたいなと思っている。