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年末の挨拶に代えて

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センター試験まであと16日。
自分の受験生時代でふと思い出したことがあったので、少し自分語りする。

 

今から二十数年前のこと。私の父は、私が高校3年生だった年の12月16日に亡くなった。
父は外国から医薬品や医療機器を輸入販売する商社で働いていて、私が生まれる前から某国と日本を行き来する生活を続けていた。その多忙さもあってか、息子の教育に関してあまり積極的に口を出す方ではなかったが、父は自分の顧客として接する医師という職業にたいへんな敬意を持っていて、私にも医師になってほしいという想いを密かに持っていたようだった。

 

かたや息子の想いはどうであったか。残念ながら、私は物心ついた頃から父が苦手だった。
営業マンでもあり生来の酒好きでもあった父は、毎晩のように酔って帰宅していた。酒好きとはいっても決して酒に強い方ではなかったらしく、泥酔して家などで醜態を晒すことも少なくなかった。私は、そんな父が嫌でたまらなかった。

そんな父が、入院することになった。母からは、胃の手術か何かだと聞かされた。実は父は、私が7歳くらいの頃にも一度、胃を切除する手術で入院したことがある。そのことを覚えていたのでさほど驚きも心配もせず、ついでに心のなかで、
(酒ばっかり飲んでるからだ)
と毒づいた。

 

入院の前日だっただろうか。来月に迫ったセンター試験に向けて受験勉強中の私の部屋のドアを、父が開けた。
「どうだ。頑張ってるか」
私は答えなかった。父が続ける。
「医学部(への進学)も、考えてみていいんじゃないか?」
頭にカッと血が上った。当たり前だが、私はもう何か月も前から某国立大学の文学部を第1志望に決め、そのための受験勉強をずっと続けてきた。センター試験の受験科目出願もとっくに済ませてある。医学部受験への転向など、どこからどう突っ込んでもむちゃくちゃな話である。
「何もわかってないなら、口を出さないでくれ」
私が視線も合わさずに冷たく言い放つと、父はそれきり黙って、部屋のドアを閉じた。

 

12月15日の深夜のこと。母と兄は病院に詰めていて不在だった。家に誰もいないのをいいことに、テレビの深夜番組にうつつを抜かしていた私のもとに電話がかかってきたのは、明け方近くだった。
お父さんが危ないからすぐ病院に来てほしい、という母の言葉の意味がわからなかった。単なる胃の手術なのに?なんでそんなことになる?

 

始発電車に飛び乗って病院へ駆けつけた私の目の前にあったのは、野戦病院のように血まみれになった処置室のベッドに横たわり、切れ切れに呼吸している父の姿だった。その周りを、医師と看護師が慌ただしく動き回っている。
父がうっすらと目を開けて私を見た。その口が動いて、
「がんばれよ」
というかすかな声が、確かに聞こえた。それから間もなく、父は意識を失った。

医師に促されて処置室を出た私に、母が震える声で告げた。
父は胃潰瘍などではなく、末期の膵臓がんだったこと。
大学受験を控えた私を動揺させないために、本当の病状は知らせないでおこうと、母と兄の間で決めていたこと。
(父本人にも告知はされなかったが、職業柄ふだんから医療の勉強を欠かさなかった父には、自分の病状は十分すぎるほどわかっていたらしい、というのは後から聞いた話)

個室に移された父と一緒に居てあげてください、と医師に促された。
もはや握り返してくることもない、父の大きな手を家族3人で握っていると、涙が出て止まらなくなった。
父親を喪う悲しみよりも、父の気持ちを理解できなかった、理解しようともしなかった自分への不甲斐なさと悔しさが圧倒的に強かったように思う。数日前に父と交わした最後の言葉。私が投げつけた硬い氷のような言葉が遠くから跳ね返ってきて、がらんどうの心のなかで、あちこちに傷をつけながら転がり落ちていくようだった。

 

父の葬儀には、仕事仲間などたくさんの人々が集まってくれた。彼らは53歳という若さでの死を嘆きながら、明るく豪快で、誰に対しても優しかった父の生前の姿を私たちに語ってくれた。家で酔いつぶれている様子からはうかがい知れなかった父のもう一つの顔が多くの人の心のなかで生き続けることは、嬉しくもあった。

そして2月下旬、私は受験勉強を終えた。第1志望の国立大学には通らなかったけれど、第2志望の私立大学に現役合格することができた。真新しい墓の前に合格通知をかざしながら、心のなかで呟いた。
(どうだ。俺はがんばったよ)

 

家の中が落ち着いてしばらく経ったとき、母が写真を何枚も出してきた。
それは、私が雨の中でずぶ濡れになりながら走っている写真だった。
私の通っていた高校では伝統行事として、学校のある埼玉県浦和市(今のさいたま市浦和区)から茨城県古河市までの50kmを走る「強歩大会」というわりと無茶なイベントを毎年10月末から11月初旬に行っている。
私にとって高校生活最後となった3年目の強歩大会は朝から土砂降りの雨が降り続く最悪のコンディションだったが、校長と校医がぎりぎりまですったもんだした挙句、大会は決行された。私たちは冷たい雨で下着までびしょ濡れになりながら、長い道のりを走り(歩き)抜いたのだった。父は場所を何度か変えながら、その姿を写真に残していた。自分に残されたわずかな時間を、そのために使ってくれた。
父と酒でも交わしながら、その礼が言いたかった。そのことだけが私の心残りだ。

 

それから二十数年が経ったいま、私はどういう因果か受験生をサポートする仕事を生業にしている。雑誌の編集に協力してくれる大学生(元受験生)の体験談や現役受験生たちから届く声からは、あの頃の私と同じように、色々なことで苛立ったり落ち込んだりする姿が見えてくる。
そして、その受験生たちのまわりには、父親や母親をはじめとする家族の姿がある。受験生の皆さんには、どうかそのことを心のどこかに留めながら、前に向かって進んで欲しいと思う。トンチンカンなことを言われてイラつくこともあるかもしれない。けれどそれは、息子や娘の成功を願ってやまない人々からの、どうしようもなく不器用だけど心のこもったメッセージだということを、忘れないでいてほしい。

 

まもなく2016年が終わる。新しい年が、すべての受験生にとっての勝利の幕開けでありますように。