たいてい全部ただの日。

雨の日もとか風の日もとかいちいち言わないブログ。

受験生、ドーンと行け!

今年もセンター試験がやってきた。

去年もこの時期に同じような記事を書いていたのだが、今年も新潟や北陸で大雪が降り続いている。昨日は信越線で、多数の受験生を含む乗客が車内に一晩閉じ込められたのだそうだ。

headlines.yahoo.co.jp

明日13日も雪が続くそうで、該当地域の受験生のみなさんは天気予報と試験会場からのお知らせに注意されたい。

万が一、交通機関の混乱で試験開始時間までに会場にたどり着けそうになかったとしても、決して慌てたり絶望したりしないこと。大学入試は、普通そういうことで不合格になったりしない。

大学入試センター:センター試験1月13日・14日交通機関が遅延・運休している場合はこちらで確認

落ち着いて自分の会場の状況を確認し、可能な限りの手段で会場に向かおう。

 

この日のために今まで頑張ってきたんだから、大丈夫。胸を張って、走り出せ!

佐渡島庸平さんのこと

昨日、小誌3月号の取材のために佐渡島庸平さんとお会いすることができた。

佐渡島さんといったらもう今さら説明の必要もない人だとは思うが、入社間もない講談社で『バガボンド』『ドラゴン桜』『働きマン』『宇宙兄弟』などの大ヒット作を次々に手がけたあと、「出版」のもつ新しい可能性にいち早く着目して、クリエイターエージェント会社「コルク」を立ち上げた人だ。

corkagency.com

お会いすることができた、といっても大半は、清水章弘さんによるインタビューを後ろで聞いていただけ。

それでも、自分よりはるかに若い佐渡島さんの口から放たれる言葉の力強さには、正直、圧倒された。世界を変えたいと本気で考え、動いている人の言葉にはこれほどの力があるのか、と感じた。

詳しい話はまだ書けないけれど、自分の将来を不安に感じている受験生諸君にとっても、きっと勇気を与えてくれる内容になると思う。 気になった方は、ぜひ来年2月5日発売の『螢雪時代』3月号を手にとってほしい。

 

余談だが、インタビュー後にはワクワクするようなお話もいただけた。この取材のきっかけを作ってくださった清水さんにも、本当に感謝している。

怒りをくれよ

螢雪時代1月号、好評発売中です。よろしくお願いします。

passnavi.evidus.com

 

 

昔から私のことを知っている人に聞かせたら驚かれるかもしれないが、あることがきっかけで3年ほど前から広島東洋カープのにわかファンをやっている。ファンになった途端にチームが25年ぶりのリーグ優勝、さらに翌年には連覇という幸運にも恵まれ、周りの人々の親切な指導もあって、最近ではシーズンオフもチームの動向をウォッチする毎日である。

こんな歳になるまで野球に興味が持てなかったのには色々と理由があるが、その一つに野球というスポーツそのものよりも一部のファンが苦手だった、ということがある。たとえば、贔屓のチームが負けたときや成績がふるわないとき、選手や監督のことを悪し様に罵る人であったり。

去年、感涙のリーグ制覇を果たしたカープだったが、日本シリーズでは日本ハムに敗れ、日本一を逃した。そして今年はクライマックスシリーズで3位から勝ち上がった横浜DeNAベイスターズに完敗し、日本シリーズに進出することもできなかった。このときとある飲食店でテレビ観戦していた私は、緒方監督や選手のことを「●ねばいいのに」くらいの勢いで罵るファンを目の当たりにしたのだった。

プロ野球選手という職業は、我々サラリーマンが想像できないほどハードなトレーニングと、ストイックな生活を基盤にして成り立っている。確かに、一介のサラリーマンが一生かかっても届かないほどの報酬をつかむチャンスは持っているけれど、一方でちょっとしたミスや不運がたたって、サラリーマンではありえない落差で報酬を失うリスクも抱えている。そんな過酷な世界を戦い抜いている選手や監督に対して、空調のきいた部屋でお好み焼きをツマミにビールを飲みながらふんぞり返っているだけの人間にやいのやいの言う資格があるかと思ってしまうのは、にわかファンゆえの甘さなのかもしれないが、やっぱりいくら悔しいからといって、他人の人格まで否定するような口汚いファンには、自分はなってはいけないと思うのだ。

 

で、本題はカープではない。

 

プロ野球選手が受けるバッシングとは比較にもならないが、出版に限らず、ものをつくって世に出す仕事をしていれば、自分たちの成果物に対して多かれ少なかれ、批判や苦情を投げつけられることからは避けられない。

いま、ソーシャルメディアがすっかり普及した世の中では、それはよりダイレクトに、そしてより激しい形で、作り手の元に叩きつけられるようになっている。

iPhoneiPadでアプリを使っている人なら、App Storeでのレビューコメントの荒れっぷりを一度は見たことがあるだろう。クソ、ゴミ、詐欺―無料アプリにすら大量に投げつけられる罵詈雑言の数々が、多くの開発者の意欲を損なっているという話も聞く。

 

小誌は発行部数からしAppleのアプリほどの影響力はないから、これに比べればずっと平和なものだ。それでも、ときおりネット書店などに書き込まれるレビューに感情がざわつくことはある。

もし内容に誤りがあれば率直に謝罪し、再発防止策をとる。読みづらい・使いづらい点があれば改善策を検討する。当たり前の話だ。しかし、たとえば来年の入試の傾向分析や難易動向、学習法の指南など、小誌の柱となっている記事には、編集側と読者側との間に“見解の相違”が生じることは避けられない。そのことをもって、わが編集部員たちが全力で、自身の存在を賭けてつくりあげた成果物をゴミ呼ばわりされることには、どうにも心の中で折り合いがつけられない。

余談だが、そういう経験があるからこそ、仕事に真摯に向き合っている野球選手を罵倒する気にはならないのだ。

 

要するに憤懣やるかたないという話なのだが、ただ怒っていても仕方がない。もうこれ以上何も言わせまい、という決意に怒りを変え、怒りを前に進むエネルギーに変えて、我々の仕事をどんどん高めていくしかないと思っている。

そうして我々がいくらがんばったところで、罵詈雑言が止むわけではない。ただ私は、それでもかまわないと思う。匿名の壁の向こうに顔を隠し、何だかよくわからない根拠を基に我々を糾弾する相手と、確固たるデータに根差し、自らの存在を賭けて成果を世に問っている我々と、どちらに理があるかという話だ。言いたければ、どんどん汚い言葉を投げてくればいい。それを糧にして、こちらは前に進むだけだ。

 

記事のタイトルは、GLIM SPANKYの曲名からお借りした。

www.youtube.com

 

ちょっと熱くなってしまったけれど、このへんで。

 

 

ドクターフィッシュと私

いいネタがないなあ…と思うまま放っておいたら、最後の更新から半年以上経ってしまった。
このまま自然消滅もシャクなので、たまにはゴミみたいな記事もポストしておこうと思う。

 

さて。

 

「ドクターフィッシュ」と呼ばれる魚のことは、ご存知の方も多いだろう。学名をガラ・ルファという小魚の通称で、自然の状態では岩に付着する藻などを常食とするが、温泉で飼育されることにより人間の皮膚の角質を好んで食べるようになったという変わった食性を持つ魚である。角質除去による美容効果に加え、吸盤のような口で皮膚を刺激されることがセラピーにもなるとして、日本でも水族館や入浴施設などで利用されている。

 

私も数年前、新潟の水族館でこの魚に出会った。館内の一隅に設置された浅い水槽の縁にたくさんの子どもたちが腰かけて歓声をあげている。近づいてみると、体長3センチほどの魚が小さな足に7匹、8匹と吸い付いている。これはおじさんも体験してみたいではないか。

かねてから足の臭いに悩まされていた私。ドクターが足の角質をスッキリ取り除いてくれたら、何かが多少変わるのではないか。そんな淡い期待も込めつつ、靴と靴下を脱いで足をどっぷりと水に沈めると、水中に不穏な気配が漂い始めた。

そのときの様子を写真や動画に収めなかったことが心から悔やまれるのだが、その状況に近い動画がYouTubeにアップされていたので貼っておく。想像の助けになれば幸いである。

youtu.be

 

ドクターフィッシュが食べるのはあくまで皮膚の角質だけだというが、このときばかりはこのまま放っておいたら肉までいかれるんじゃないかと若干の恐怖を感じたほどだ。(実際は気持ちよかった)
隣には小学校1〜2年生くらいの、頭を丸刈りにした男の子が座っていた。
口を半開きにしながら、私の顔と魚群と化した足とを交互に凝視するその顔が、今でも忘れられない。

 

子どもたちの足と比べておっさんの足がなぜこうも魚たちにアピールしたのかはわからないが、魚の気持ちをラーメンに例えると、近所の店が幸楽苑ちりめん亭などのチェーン店ばかりで飽き飽きしていたところに、寸胴で猛烈に煮詰まった豚骨の匂いを振りまきながらホープ軒が突如出店したような感覚だったのではないだろうか。知らんけど。

世の中では多くの人々が、何者にもなれず、世間に余計なものばかり垂れ流しているように思える自分を悔いながら生きている。しかし、こんなおっさんの臭い足でも誰かの糧になっているかと思うと、少しは胸を張って生きようという気にさせてくれたフィッシュ・セラピーであった。(結論がおかしい)

 

ちなみに、足はあの頃と同じままくさい。

 

現場からは以上です。

今日は何の日

東日本大震災から、明日で6年を迎える。

今年もまた、人々は大切な人たちの喪われた命を思い出し、明日へ向かって歩き続ける決意を新たにすることだろう。

この震災の死者・行方不明者数、18,455人。(2016年3月10日現在)

あの日の恐怖と悲しみの記憶は、まだまだ忘れ去られることはない。

 

もう一つ、憶えておかなければいけない日がある。それが今日。

東日本大震災から66年と1日前のこの日、あの震災の5倍以上の命が、東京たった1都だけで、一晩のうちに奪われた。

東京大空襲 - Wikipedia

 

平和は忘却を生む。それは悪いことばかりではないと思うけれど、日本人が国のために死ねと命じられたあの時代の体制を肯定するような考え方があったとしたら、それは人として大切なものをあまりに忘れていないか。

 

国が公表している第二次大戦の日本の戦没者総数は約310万人。

学問や仕事、友情、恋愛や結婚、新しい家族…いろんな可能性に満ちていた310万個の未来が、あの戦争で奪われたのだ。その人たちの魂に向かって、あの頃の日本は良かったですねなんて、どんな顔して言えるだろう。

 

 終戦から72年。

忘れない。忘れさせない。今年はそう、決意を新たにしなきゃいけない気がしている。

 

どうでもいい話

前職で一度提案を受けた某ネット広告代理店の人が会社の代表番号に私宛ての電話をかけてきた。前任が退職したので一度ご挨拶に伺いたく…と言うので、
私「私、1年くらい前に異動しまして」
代理店「なるほどですね」
私「ご用件は後任に申し伝えておきますので、私宛にメールをいただけますか」
代理店「かしこまりました。後ほどメールをお送りいたします」
で、メールが来ない。

 


というやりとりが半年くらいの間に2、3回発生しているんだが、彼はいったい何がしたいんだろう。

間合いの県民性

この間、仙台へ取材に行った。

実は入社2年目の頃に山形で仕事をしていたことがあって、仙台にも何度か遊びに行ったことがある。

そのときには全然気づかなかったのだが、今回街を歩いていておやと思ったことがある。

 

他人同士の間合いが異常に近いのだ。

 

ちょっと何言ってるかわからないかもしれないが、例を挙げるとこういうこと。

例えば道で見知らぬ二人がすれ違うとき、東京なら数メートル先からお互いが微妙に進路を外側に反らし、いい感じに距離を取りながらすれ違おうとする。

ところが仙台では、ほとんどぶつかりそうな距離まで近づいてくるのだ。人を追い抜くときも同じで、油断しているとドキッとさせられる。念のために補足しておくと、細い道やひどく混雑した道を歩いていたわけではない。

もう一つあった。信号待ちをしていたら後ろにサラリーマン風の二人連れが立って会話をしていたのだけれど、これも距離が異様に近いうえに声が大きいので、まるで耳元で話をされているくらいに内容が丸聞こえで困ってしまった。

 

人間にはこれ以上接近されると不安・不快になるというパーソナルスペースがある程度定まっているというが、その距離が県民単位で異なっているとするとそれはそれで面白い現象だなと思う。

ATフィールドの観点で考えると、エヴァパイロットを選ぶときは県民性も考慮に入れた方がいいということだ。(結論がおかしい)