たいてい全部ただの日。

雨の日もとか風の日もとかいちいち言わないブログ。

断言する人々

とにかく物事に白黒つけたがるというか、自分の意見を断言することに躊躇しない人がいる。

例えば、新しい企画を考えて上長に企画書を提出したとする。上長は企画書を数ページめくって一言。「全然ダメだよ、こんなの」。全否定である。さらに返す刀で「真面目に考えてたら、こんな企画が出てくるワケがないだろう」などと、部下の人格に近いところまで抉ってくる。こんな人、みなさんの周りにもいないだろうか。

※最初にお断りしておくが、本記事は「私の上司がこういう人で困っている」という主旨ではないのでくれぐれも誤解なきようにお願いしたい。

 ちなみに、私も他人から上がってきた企画案やデザイン案をジャッジする立場にある。手渡された内容に気に入らない点があったとき、私ならどうするか。

「全体的には良いと思うけれど、こことここの○○は、直したほうがいいと思います。なぜなら…」

非常に優等生的な答えになってしまうが、こうなる。部下によっては、最初の「断言型」上司の方が恐ろしいけれど頼りがいはあると感じるだろう。私も「ここでズバッと指示ができればなあ〜」と思うことはしばしばだ。それでも、私は問題を何でも一刀両断できるスーパーマンより、常に悩み迷い続ける凡人でありたいと思う。

 

先々週くらいの話。民放キー局出身のフリーアナウンサーが自らのブログで、自業自得の透析患者は全額自己負担にせよ、さもなくば殺せ―という持論を公開して大炎上、謝罪に追い込まれたうえにレギュラー出演番組のほぼすべてを降板させられるという騒動はご存じの方も多いだろう。個人的にもおぞましい内容の記事であると思うので、当該ブログやWeb魚拓へのリンクは控える。

炎上の端緒となった記事で、フリーアナウンサー氏は自らが取材した医師のコメントとして、「8割9割の患者は食生活と生活習慣が原因であり、自業自得である」と断言している。医師の助言も無視して好き放題に飲み食いし運動も怠った結果ということだ。

 私事で恐縮だが、私の妻の父親、つまり私の義理の父も透析患者だった。義父がどういった経緯で腎機能を失うことになったのか詳しいことは訊いていないので、若い頃の不摂生が原因なのか、それとも働きすぎで身体を壊したということなのかはわからない。ともかく、私が知り合った頃の義父は煙草はやらず、酒はお祝い事のある日くらいにビールをコップ1杯空ける程度、食事もごく少食で、ゴルフなどで可能な限り身体を動かすことが好きだった。そんな義父は6年前、肺がんを患ってこの世を去った。 

事程左様に、病気の原因は特定することが難しい。百歩譲って、本当に過度の飲酒や食生活の乱れといった原因のみによって生活習慣病にかかったのが明らかな人がいたとしよう。その人は、なぜそのような乱れた生活に陥ったのだろうか。過酷な労働、ストレス、貧困―仮定の話であっても想像は色々とつく。件のフリーアナウンサー氏は自分の言う「自業自得の透析患者」を童話「アリとキリギリス」に登場するキリギリスにすらなぞらえていたが、これは世間知らずと言われても仕方のない想像力の欠如だ。

件の記事が炎上し、レギュラー出演番組からの降板が発表された後、フリーアナウンサー氏はブログに謝罪記事をアップした。この中で、彼はこう述べている。

ご自身に何の落ち度もない患者さん
透析まで至ってしまっても、心を入れ替えて、真摯に治療に当たっている患者さん

そんな皆様にいらぬ偏見を植え付け、下らない誹謗中傷を誘う可能性のある内容であったことは間違ない話なのだと思います。

この期に及んで、まだ「良い患者」と「悪い患者」の峻別ができると言っているのである。患者の人生の価値を自分が判定できると言っているに等しい、あまりに傲慢、そしてあまりに無恥な考えではないかと思う。こんなことを40歳を過ぎた、それなりに社会的地位もある大人が言っているのだから、ちょっと絶望してしまいそうではないか。

 

この騒動にまつわる色々なネット記事を巡っていて、ズイショさん( id:zuiji_zuisho )という方の記事にとても頷かされることが多かったので引用する。

zuisho.hatenadiary.jp

先日、「私たちは複雑さに耐えて生きていかなければならない」というタイトルのブログを書いたのだけど*1つまりはそういうことで、結局世の中のたいていの炎上・失言・暴走した正義ってのは、複雑さに耐えられずに音を上げて本来複雑である問題を単純化して極論を振り回していることを咎められているのであって、一部が正しいのは当たり前といえば当たり前、というか一から十まで本当に何から何まで全部間違ってることを言うのって小学校に行って一応の読み書きを習得してしまった人間にとってはそっちの方が逆によっぽど難しい。

※太字は筆者。

ズイショさんが別の記事のタイトルにしている「私たちは複雑さに耐えて生きていかなければならない」とは、1998年にニューデリーで開かれた国際児童図書評議会の基調講演で美智子皇后が仰った言葉だそうだ。下記はその原文。

第26回IBBYニューデリー大会基調講演 - 宮内庁

戦争や政治、自然災害や環境問題など、世の中のあらゆる問題は、どちらが善か悪かで解決できる問題ではない。いや、そんな大きな話でない、ひとりひとりの家庭内の問題でさえそうだ。あちらを直せばこちらが飛び出す、まるで組み付けの良すぎる箪笥みたいに。

もちろん、仕事の現場などでは、できるだけ短時間に白か黒かの判断をつけなければならない瞬間が往々にしてあるのはみんながよく知っていることだ。ただそれは、これから数日とか1か月とか1年とか、いわゆる当座を乗り切るための応急対応であるということが、意外に忘れられている気がする。その応急対応が問題の本質的解決につながっていないことを忘れず、その苦さを口の中に常に感じながら、あちらに飛び出した問題を直し、こちらにまた飛び出してきた問題に取り組むという日々が、複雑さに耐えて生きるということの一つの形なのかもしれない。

単純明快でちょっとばかり過激なソリューションの提案は人を引きつける力があるし、特に追い込まれた人ほどそんな解決策に飛びつきたい心情も理解できるけれど、それは本質的解決につながらないばかりか、問題をこじれさせることすらある。そのことをかなり強烈な形で教えてくれたのが、5年前の震災であり原発事故であった気もしている。

 

複雑さに耐えて生きる。自分が生きることをそういうふうに捉えてみるとやはり、私には他人がそれなりに時間をかけて考えてきた成果を「こんなのダメだよ」と放り投げることはできそうにないし、世の中の(たぶん)複雑な背景を持つ問題を一刀両断に断言する蛮勇も持てそうにない。だが、きっとそれでいいのだと思う。