たいてい全部ただの日。

雨の日もとか風の日もとかいちいち言わないブログ。

怒りをくれよ

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昔から私のことを知っている人に聞かせたら驚かれるかもしれないが、あることがきっかけで3年ほど前から広島東洋カープのにわかファンをやっている。ファンになった途端にチームが25年ぶりのリーグ優勝、さらに翌年には連覇という幸運にも恵まれ、周りの人々の親切な指導もあって、最近ではシーズンオフもチームの動向をウォッチする毎日である。

こんな歳になるまで野球に興味が持てなかったのには色々と理由があるが、その一つに野球というスポーツそのものよりも一部のファンが苦手だった、ということがある。たとえば、贔屓のチームが負けたときや成績がふるわないとき、選手や監督のことを悪し様に罵る人であったり。

去年、感涙のリーグ制覇を果たしたカープだったが、日本シリーズでは日本ハムに敗れ、日本一を逃した。そして今年はクライマックスシリーズで3位から勝ち上がった横浜DeNAベイスターズに完敗し、日本シリーズに進出することもできなかった。このときとある飲食店でテレビ観戦していた私は、緒方監督や選手のことを「●ねばいいのに」くらいの勢いで罵るファンを目の当たりにしたのだった。

プロ野球選手という職業は、我々サラリーマンが想像できないほどハードなトレーニングと、ストイックな生活を基盤にして成り立っている。確かに、一介のサラリーマンが一生かかっても届かないほどの報酬をつかむチャンスは持っているけれど、一方でちょっとしたミスや不運がたたって、サラリーマンではありえない落差で報酬を失うリスクも抱えている。そんな過酷な世界を戦い抜いている選手や監督に対して、空調のきいた部屋でお好み焼きをツマミにビールを飲みながらふんぞり返っているだけの人間にやいのやいの言う資格があるかと思ってしまうのは、にわかファンゆえの甘さなのかもしれないが、やっぱりいくら悔しいからといって、他人の人格まで否定するような口汚いファンには、自分はなってはいけないと思うのだ。

 

で、本題はカープではない。

 

プロ野球選手が受けるバッシングとは比較にもならないが、出版に限らず、ものをつくって世に出す仕事をしていれば、自分たちの成果物に対して多かれ少なかれ、批判や苦情を投げつけられることからは避けられない。

いま、ソーシャルメディアがすっかり普及した世の中では、それはよりダイレクトに、そしてより激しい形で、作り手の元に叩きつけられるようになっている。

iPhoneiPadでアプリを使っている人なら、App Storeでのレビューコメントの荒れっぷりを一度は見たことがあるだろう。クソ、ゴミ、詐欺―無料アプリにすら大量に投げつけられる罵詈雑言の数々が、多くの開発者の意欲を損なっているという話も聞く。

 

小誌は発行部数からしAppleのアプリほどの影響力はないから、これに比べればずっと平和なものだ。それでも、ときおりネット書店などに書き込まれるレビューに感情がざわつくことはある。

もし内容に誤りがあれば率直に謝罪し、再発防止策をとる。読みづらい・使いづらい点があれば改善策を検討する。当たり前の話だ。しかし、たとえば来年の入試の傾向分析や難易動向、学習法の指南など、小誌の柱となっている記事には、編集側と読者側との間に“見解の相違”が生じることは避けられない。そのことをもって、わが編集部員たちが全力で、自身の存在を賭けてつくりあげた成果物をゴミ呼ばわりされることには、どうにも心の中で折り合いがつけられない。

余談だが、そういう経験があるからこそ、仕事に真摯に向き合っている野球選手を罵倒する気にはならないのだ。

 

要するに憤懣やるかたないという話なのだが、ただ怒っていても仕方がない。もうこれ以上何も言わせまい、という決意に怒りを変え、怒りを前に進むエネルギーに変えて、我々の仕事をどんどん高めていくしかないと思っている。

そうして我々がいくらがんばったところで、罵詈雑言が止むわけではない。ただ私は、それでもかまわないと思う。匿名の壁の向こうに顔を隠し、何だかよくわからない根拠を基に我々を糾弾する相手と、確固たるデータに根差し、自らの存在を賭けて成果を世に問っている我々と、どちらに理があるかという話だ。言いたければ、どんどん汚い言葉を投げてくればいい。それを糧にして、こちらは前に進むだけだ。

 

記事のタイトルは、GLIM SPANKYの曲名からお借りした。

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ちょっと熱くなってしまったけれど、このへんで。

 

 

ドクターフィッシュと私

いいネタがないなあ…と思うまま放っておいたら、最後の更新から半年以上経ってしまった。
このまま自然消滅もシャクなので、たまにはゴミみたいな記事もポストしておこうと思う。

 

さて。

 

「ドクターフィッシュ」と呼ばれる魚のことは、ご存知の方も多いだろう。学名をガラ・ルファという小魚の通称で、自然の状態では岩に付着する藻などを常食とするが、温泉で飼育されることにより人間の皮膚の角質を好んで食べるようになったという変わった食性を持つ魚である。角質除去による美容効果に加え、吸盤のような口で皮膚を刺激されることがセラピーにもなるとして、日本でも水族館や入浴施設などで利用されている。

 

私も数年前、新潟の水族館でこの魚に出会った。館内の一隅に設置された浅い水槽の縁にたくさんの子どもたちが腰かけて歓声をあげている。近づいてみると、体長3センチほどの魚が小さな足に7匹、8匹と吸い付いている。これはおじさんも体験してみたいではないか。

かねてから足の臭いに悩まされていた私。ドクターが足の角質をスッキリ取り除いてくれたら、何かが多少変わるのではないか。そんな淡い期待も込めつつ、靴と靴下を脱いで足をどっぷりと水に沈めると、水中に不穏な気配が漂い始めた。

そのときの様子を写真や動画に収めなかったことが心から悔やまれるのだが、その状況に近い動画がYouTubeにアップされていたので貼っておく。想像の助けになれば幸いである。

youtu.be

 

ドクターフィッシュが食べるのはあくまで皮膚の角質だけだというが、このときばかりはこのまま放っておいたら肉までいかれるんじゃないかと若干の恐怖を感じたほどだ。(実際は気持ちよかった)
隣には小学校1〜2年生くらいの、頭を丸刈りにした男の子が座っていた。
口を半開きにしながら、私の顔と魚群と化した足とを交互に凝視するその顔が、今でも忘れられない。

 

子どもたちの足と比べておっさんの足がなぜこうも魚たちにアピールしたのかはわからないが、魚の気持ちをラーメンに例えると、近所の店が幸楽苑ちりめん亭などのチェーン店ばかりで飽き飽きしていたところに、寸胴で猛烈に煮詰まった豚骨の匂いを振りまきながらホープ軒が突如出店したような感覚だったのではないだろうか。知らんけど。

世の中では多くの人々が、何者にもなれず、世間に余計なものばかり垂れ流しているように思える自分を悔いながら生きている。しかし、こんなおっさんの臭い足でも誰かの糧になっているかと思うと、少しは胸を張って生きようという気にさせてくれたフィッシュ・セラピーであった。(結論がおかしい)

 

ちなみに、足はあの頃と同じままくさい。

 

現場からは以上です。

今日は何の日

東日本大震災から、明日で6年を迎える。

今年もまた、人々は大切な人たちの喪われた命を思い出し、明日へ向かって歩き続ける決意を新たにすることだろう。

この震災の死者・行方不明者数、18,455人。(2016年3月10日現在)

あの日の恐怖と悲しみの記憶は、まだまだ忘れ去られることはない。

 

もう一つ、憶えておかなければいけない日がある。それが今日。

東日本大震災から66年と1日前のこの日、あの震災の5倍以上の命が、東京たった1都だけで、一晩のうちに奪われた。

東京大空襲 - Wikipedia

 

平和は忘却を生む。それは悪いことばかりではないと思うけれど、日本人が国のために死ねと命じられたあの時代の体制を肯定するような考え方があったとしたら、それは人として大切なものをあまりに忘れていないか。

 

国が公表している第二次大戦の日本の戦没者総数は約310万人。

学問や仕事、友情、恋愛や結婚、新しい家族…いろんな可能性に満ちていた310万個の未来が、あの戦争で奪われたのだ。その人たちの魂に向かって、あの頃の日本は良かったですねなんて、どんな顔して言えるだろう。

 

 終戦から72年。

忘れない。忘れさせない。今年はそう、決意を新たにしなきゃいけない気がしている。

 

どうでもいい話

前職で一度提案を受けた某ネット広告代理店の人が会社の代表番号に私宛ての電話をかけてきた。前任が退職したので一度ご挨拶に伺いたく…と言うので、
私「私、1年くらい前に異動しまして」
代理店「なるほどですね」
私「ご用件は後任に申し伝えておきますので、私宛にメールをいただけますか」
代理店「かしこまりました。後ほどメールをお送りいたします」
で、メールが来ない。

 


というやりとりが半年くらいの間に2、3回発生しているんだが、彼はいったい何がしたいんだろう。

間合いの県民性

この間、仙台へ取材に行った。

実は入社2年目の頃に山形で仕事をしていたことがあって、仙台にも何度か遊びに行ったことがある。

そのときには全然気づかなかったのだが、今回街を歩いていておやと思ったことがある。

 

他人同士の間合いが異常に近いのだ。

 

ちょっと何言ってるかわからないかもしれないが、例を挙げるとこういうこと。

例えば道で見知らぬ二人がすれ違うとき、東京なら数メートル先からお互いが微妙に進路を外側に反らし、いい感じに距離を取りながらすれ違おうとする。

ところが仙台では、ほとんどぶつかりそうな距離まで近づいてくるのだ。人を追い抜くときも同じで、油断しているとドキッとさせられる。念のために補足しておくと、細い道やひどく混雑した道を歩いていたわけではない。

もう一つあった。信号待ちをしていたら後ろにサラリーマン風の二人連れが立って会話をしていたのだけれど、これも距離が異様に近いうえに声が大きいので、まるで耳元で話をされているくらいに内容が丸聞こえで困ってしまった。

 

人間にはこれ以上接近されると不安・不快になるというパーソナルスペースがある程度定まっているというが、その距離が県民単位で異なっているとするとそれはそれで面白い現象だなと思う。

ATフィールドの観点で考えると、エヴァパイロットを選ぶときは県民性も考慮に入れた方がいいということだ。(結論がおかしい)

 

 

新年のご挨拶とセンター試験と

新しい年になってすでに2週間が経ってしまうわけだが、どうにも筆無精なもので心苦しい限り。

ということで今年もよろしくお願いいたします。

 

明日はいよいよセンター試験本試験の初日。

色々な想いを胸にして戦いに臨む受験生すべてに幸せな春が訪れることを祈る。

が、当座心配なのが明日・明後日の天候。

私の大学時代の友人が新潟県三条市で温泉旅館を営んでいるのだが、地元の写真を昨日Instagramにアップしていた。

www.instagram.com

 

なんだこれは。

交通に大きな影響が出ないといいけれど。

 

天気予報では、降雪は日本海側を中心に西は広島県にまで及ぶとのこと。受験生のみなさんは、試験場の大学ホームページなどをこまめにチェックしていただき、くれぐれも早め早めの移動を心がけてほしい。

 

ちなみに、ちなみに、、

螢雪時代2月号、明日発売です。

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2次出願のポイントなど、センター受験後に役立つ情報を多く掲載。ひと息ついてからでいいので、手にとって参考にしてもらえると幸い。

 

最後に、東京・神楽坂にある「螢雪天神」に奉納した絵馬の写真で締めとしたい。

いくぞ、受験生!

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年末の挨拶に代えて

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センター試験まであと16日。
自分の受験生時代でふと思い出したことがあったので、少し自分語りする。

 

今から二十数年前のこと。私の父は、私が高校3年生だった年の12月16日に亡くなった。
父は外国から医薬品や医療機器を輸入販売する商社で働いていて、私が生まれる前から某国と日本を行き来する生活を続けていた。その多忙さもあってか、息子の教育に関してあまり積極的に口を出す方ではなかったが、父は自分の顧客として接する医師という職業にたいへんな敬意を持っていて、私にも医師になってほしいという想いを密かに持っていたようだった。

 

かたや息子の想いはどうであったか。残念ながら、私は物心ついた頃から父が苦手だった。
営業マンでもあり生来の酒好きでもあった父は、毎晩のように酔って帰宅していた。酒好きとはいっても決して酒に強い方ではなかったらしく、泥酔して家などで醜態を晒すことも少なくなかった。私は、そんな父が嫌でたまらなかった。

そんな父が、入院することになった。母からは、胃の手術か何かだと聞かされた。実は父は、私が7歳くらいの頃にも一度、胃を切除する手術で入院したことがある。そのことを覚えていたのでさほど驚きも心配もせず、ついでに心のなかで、
(酒ばっかり飲んでるからだ)
と毒づいた。

 

入院の前日だっただろうか。来月に迫ったセンター試験に向けて受験勉強中の私の部屋のドアを、父が開けた。
「どうだ。頑張ってるか」
私は答えなかった。父が続ける。
「医学部(への進学)も、考えてみていいんじゃないか?」
頭にカッと血が上った。当たり前だが、私はもう何か月も前から某国立大学の文学部を第1志望に決め、そのための受験勉強をずっと続けてきた。センター試験の受験科目出願もとっくに済ませてある。医学部受験への転向など、どこからどう突っ込んでもむちゃくちゃな話である。
「何もわかってないなら、口を出さないでくれ」
私が視線も合わさずに冷たく言い放つと、父はそれきり黙って、部屋のドアを閉じた。

 

12月15日の深夜のこと。母と兄は病院に詰めていて不在だった。家に誰もいないのをいいことに、テレビの深夜番組にうつつを抜かしていた私のもとに電話がかかってきたのは、明け方近くだった。
お父さんが危ないからすぐ病院に来てほしい、という母の言葉の意味がわからなかった。単なる胃の手術なのに?なんでそんなことになる?

 

始発電車に飛び乗って病院へ駆けつけた私の目の前にあったのは、野戦病院のように血まみれになった処置室のベッドに横たわり、切れ切れに呼吸している父の姿だった。その周りを、医師と看護師が慌ただしく動き回っている。
父がうっすらと目を開けて私を見た。その口が動いて、
「がんばれよ」
というかすかな声が、確かに聞こえた。それから間もなく、父は意識を失った。

医師に促されて処置室を出た私に、母が震える声で告げた。
父は胃潰瘍などではなく、末期の膵臓がんだったこと。
大学受験を控えた私を動揺させないために、本当の病状は知らせないでおこうと、母と兄の間で決めていたこと。
(父本人にも告知はされなかったが、職業柄ふだんから医療の勉強を欠かさなかった父には、自分の病状は十分すぎるほどわかっていたらしい、というのは後から聞いた話)

個室に移された父と一緒に居てあげてください、と医師に促された。
もはや握り返してくることもない、父の大きな手を家族3人で握っていると、涙が出て止まらなくなった。
父親を喪う悲しみよりも、父の気持ちを理解できなかった、理解しようともしなかった自分への不甲斐なさと悔しさが圧倒的に強かったように思う。数日前に父と交わした最後の言葉。私が投げつけた硬い氷のような言葉が遠くから跳ね返ってきて、がらんどうの心のなかで、あちこちに傷をつけながら転がり落ちていくようだった。

 

父の葬儀には、仕事仲間などたくさんの人々が集まってくれた。彼らは53歳という若さでの死を嘆きながら、明るく豪快で、誰に対しても優しかった父の生前の姿を私たちに語ってくれた。家で酔いつぶれている様子からはうかがい知れなかった父のもう一つの顔が多くの人の心のなかで生き続けることは、嬉しくもあった。

そして2月下旬、私は受験勉強を終えた。第1志望の国立大学には通らなかったけれど、第2志望の私立大学に現役合格することができた。真新しい墓の前に合格通知をかざしながら、心のなかで呟いた。
(どうだ。俺はがんばったよ)

 

家の中が落ち着いてしばらく経ったとき、母が写真を何枚も出してきた。
それは、私が雨の中でずぶ濡れになりながら走っている写真だった。
私の通っていた高校では伝統行事として、学校のある埼玉県浦和市(今のさいたま市浦和区)から茨城県古河市までの50kmを走る「強歩大会」というわりと無茶なイベントを毎年10月末から11月初旬に行っている。
私にとって高校生活最後となった3年目の強歩大会は朝から土砂降りの雨が降り続く最悪のコンディションだったが、校長と校医がぎりぎりまですったもんだした挙句、大会は決行された。私たちは冷たい雨で下着までびしょ濡れになりながら、長い道のりを走り(歩き)抜いたのだった。父は場所を何度か変えながら、その姿を写真に残していた。自分に残されたわずかな時間を、そのために使ってくれた。
父と酒でも交わしながら、その礼が言いたかった。そのことだけが私の心残りだ。

 

それから二十数年が経ったいま、私はどういう因果か受験生をサポートする仕事を生業にしている。雑誌の編集に協力してくれる大学生(元受験生)の体験談や現役受験生たちから届く声からは、あの頃の私と同じように、色々なことで苛立ったり落ち込んだりする姿が見えてくる。
そして、その受験生たちのまわりには、父親や母親をはじめとする家族の姿がある。受験生の皆さんには、どうかそのことを心のどこかに留めながら、前に向かって進んで欲しいと思う。トンチンカンなことを言われてイラつくこともあるかもしれない。けれどそれは、息子や娘の成功を願ってやまない人々からの、どうしようもなく不器用だけど心のこもったメッセージだということを、忘れないでいてほしい。

 

まもなく2016年が終わる。新しい年が、すべての受験生にとっての勝利の幕開けでありますように。