たいてい全部ただの日。

雨の日もとか風の日もとかいちいち言わないブログ。

キュレーションサイト騒動について、いち出版業界人として思うこと

DeNAの医療・健康情報キュレーションサイト"WELQ" の炎上に端を発したキュレーションサイト問題が大きな広がりを見せている。ウェブメディアそのものの構造的問題を論じた記事、盗用と剽窃を繰り返すメディア編集長との戦いを描いたドキュメント、記事大量生産の現場からの内部告発など、いろいろな角度からの記事がメディアを賑わせている。盗用と捏造記事で築かれた山が崩れたことで、取材と独自考察に基づく記事コンテンツが大量に生み出される結果となったのはいかにも皮肉な話だ。(もちろん、この件を論じてPVを稼ぐために盗用で構成された記事も無数にある。そういう共喰いのようなメタ構造のような状態も面白といえば面白いけれども)

 

そうした中、SNSを通じて1本の記事が私の目の前に回ってきた。
◼︎1円ライターから見た、キュレーションサイト「炎上」の現場
http://magazine-k.jp/2016/12/08/writing-for-curation-media/

クラウドソーシングサービスに登録し、キュレーションサイトの記事大量生産に従事しているという「自称ライター」の書いた記事だ。「自称ライター」という呼称に悪意が感じられるかもしれないが、敢えてこう呼んでいる理由は後述する。

 

まあとにかく、記事を読んだ第一印象は最悪だった。筆者の、私には筆力がある、努力すれば成り上がれるはずという謎のプライドと、糊口をしのぐために慣れないライティングに従事する主婦ライターを気遣うような素振りで見下す視線、一方で、ライティングを職業として成立させている「本物の」ライターに向けられた凄まじい怨嗟と悪意―そういった心の闇みたいなものがドクドクと染み出しているのが感じられて、正直吐き気を覚えるほどだった。(飲酒していたせいもあるかもしれないけれど)
一夜明けて、少し冷静に考えてみる。記事の内容には相変わらず全く同意できないけれど、その要因を筆者の筆力や人格に帰するのではなく、「文章を書く仕事」にキュレーションサイトというビジネスモデルがもたらした認知の歪みみたいなものに対してきちんと向き合い、誤っている部分に丁寧に反論を加えていくのが、曲がりなりにも言葉や文章で商売をしている業界人としての役割ではないかと思っている。

 

さて。今さら言うまでもないが、雑誌づくりの現場にライターの存在は欠かせない。小誌『螢雪時代』でも、社員編集者が入試動向分析など専門性の高い記事を執筆する一方、何人ものライターさんにバラエティ豊かな記事執筆・編集の協力を得て、硬軟取り混ぜた雑誌が成立できている。
ライターに支払う報酬について、詳細は守秘義務があるのでさすがにここには書けないが、はっきり言えるのは、金額の算出にあたって「1文字●円」というような計算はまずしないということだ。そもそも原稿の文字数は編集者やデザイナーが主体となって決めるものだし、ダラダラ長く書けば報酬が上がるというようなモチベーションで仕事をされても困る。(そんなマインドのライターに会ったことは一度もないが)基本的には、記事の内容などに応じてページあたりの単価をライターにオファーし、相談して決めるのが常だが、敢えて1文字単位の価格に換算するならば、「1円ライター」と自称する人のゆうに10倍以上は支払っているはずだ。だから、私たちが付き合っているライターさんたちは、上の記事の筆者に言わせれば「肥え太る高級ライター」なのだろう。

 

かくいう私も世間を知らない学生時分、文章を書くのが比較的得意だったこともあって、将来は“物書き”になりたいと思っていた。物書きとは小説家なのかフリーライターなのか新聞・雑誌記者なのか、ヴィジョンがイマイチ定まらないまま就職活動に突入し、どちらかというと物書きにものを書かせる側のポジションに落ち着いて現在に至るわけだが、これまでの仕事を振り返って、自分は物書きを職業としなくてよかったとつくづく思う。
小誌に原稿を寄せてくださっているライターにはいろいろな人がいる。もちろん主婦もいるし、一人で子育てをしながら独立系一筋でやってきたベテランもいる。彼・彼女らに共通するのは、ライターとして積み重ねてきた経験と知識の厚さ、そしてその仕事で生きていくという覚悟の強さだと思う。私たちは、そこから生み出される原稿の価値に対してお金を払っている。果たして自分がその道を選んでいたら、いつ収入が途絶えるかわからない恐怖に耐えて、質の高い文章を書き続けることができていただろうかと想像し、体が震えるような感覚を覚える。それを思うと、文章を書くことで生活を維持し続けるライター諸氏には敬意を払わずにいられないのだ。

 

現代は、未だ嘗てないほどに多くの人々が文章を書き、世界に発信している時代だ。インターネットの普及によって文章を発信するための物理的ハードルが劇的に下がり、一見コストも体力もかからない「文章を書いて稼ぐ」という職業スタイルは、人々にとってますます魅力的に映るだろう。“不労所得”を夢見てブログを開設し、アフィリエイトコードを取得して広告をせっせと貼り、記事を何万字書いても収入は小遣い程度にすらならず、当然誰も自分をライターとは呼んでくれない。「ライター募集」「キュレーター募集」。クラウドソーシングサービスから囁かれる言葉が、どれほど甘美に響くことか。
しかし、それに惹かれて集まった人々に与えられるのは、見知らぬ他人が書いた文章をコピーし、切り貼りする仕事。Googleで検索した情報を元に、さも自分が現地で取材したかのような記事をでっち上げる仕事。それはライティングでもキュレーションでも何でもない、ただの軽作業ではないか。冒頭の記事の筆者を「自称ライター」と敢えて呼んだのは、そのようなわけだ。
その職場は優しさに満ちていると、自称ライター氏は言う。しかし、言わせてほしい。ライターになりたいという人々のささやかな夢につけこんで夢とはほど遠い軽作業をさせ、やりがいと労働力を二束三文で搾取する現場のどこに優しさがあるというのか。

 

(とここまで書いてふと思ったのだが、件の記事こそキュレーションサイト運営側から1文字1円の依頼で書かれたのでは?という気がしてきた。勘ぐりすぎだろうか)

 

陰謀論めいたつぶやきはさておき。
一連のキュレーションサイト運営会社は、ライターを夢見る普通の人々を騙し、Googleの検索アルゴリズムを騙すことで莫大な利益を掴み、それと引き換えにウェブメディアへの信頼は地に墜ち、ライターという職業は製造業の一角に勝手に組み込まれたことでその存在意味自体に揺らぎが生じてしまった。「キュレーション」は、その言葉本来の意味を完全に失ってしまった。その責めを負うべきは誰なのか、そこは論を待たないだろう。

 

私は、何もライターが特別な職業だというつもりはない。正当な能力と実績を持つ人が正当に評価されるべきなのは、営業マンであれ経営者であれ、主婦であっても同じこと。人々が働く世界は、そうあってほしい。私の願いはそれだけだ。

 

 

最後になるが、1文字1円のクラウドソーシングサービスならここまで書いて2,728円。半日以上かけて書いたが、正当な報酬だろうか?

本日の一曲。

www.youtube.com

来月来日するMANIC STREET PREACHERSのイギリスでのライヴ映像。

私がマニックスに初めて出会ったのは大学3年生のとき。その頃はインタビューの最中にカミソリで腕を切り刻んだりしてた4人が今は3人になり、子どもから老人までがシンガロングしてくれるバンドになったのを見ると何だか嬉しいような切ないような複雑な気持ちになってくる。

11月8日の新木場STUDIO COAST。その場に立ったら泣いてしまいそうな気もしている。

断言する人々

とにかく物事に白黒つけたがるというか、自分の意見を断言することに躊躇しない人がいる。

例えば、新しい企画を考えて上長に企画書を提出したとする。上長は企画書を数ページめくって一言。「全然ダメだよ、こんなの」。全否定である。さらに返す刀で「真面目に考えてたら、こんな企画が出てくるワケがないだろう」などと、部下の人格に近いところまで抉ってくる。こんな人、みなさんの周りにもいないだろうか。

※最初にお断りしておくが、本記事は「私の上司がこういう人で困っている」という主旨ではないのでくれぐれも誤解なきようにお願いしたい。

 ちなみに、私も他人から上がってきた企画案やデザイン案をジャッジする立場にある。手渡された内容に気に入らない点があったとき、私ならどうするか。

「全体的には良いと思うけれど、こことここの○○は、直したほうがいいと思います。なぜなら…」

非常に優等生的な答えになってしまうが、こうなる。部下によっては、最初の「断言型」上司の方が恐ろしいけれど頼りがいはあると感じるだろう。私も「ここでズバッと指示ができればなあ〜」と思うことはしばしばだ。それでも、私は問題を何でも一刀両断できるスーパーマンより、常に悩み迷い続ける凡人でありたいと思う。

 

先々週くらいの話。民放キー局出身のフリーアナウンサーが自らのブログで、自業自得の透析患者は全額自己負担にせよ、さもなくば殺せ―という持論を公開して大炎上、謝罪に追い込まれたうえにレギュラー出演番組のほぼすべてを降板させられるという騒動はご存じの方も多いだろう。個人的にもおぞましい内容の記事であると思うので、当該ブログやWeb魚拓へのリンクは控える。

炎上の端緒となった記事で、フリーアナウンサー氏は自らが取材した医師のコメントとして、「8割9割の患者は食生活と生活習慣が原因であり、自業自得である」と断言している。医師の助言も無視して好き放題に飲み食いし運動も怠った結果ということだ。

 私事で恐縮だが、私の妻の父親、つまり私の義理の父も透析患者だった。義父がどういった経緯で腎機能を失うことになったのか詳しいことは訊いていないので、若い頃の不摂生が原因なのか、それとも働きすぎで身体を壊したということなのかはわからない。ともかく、私が知り合った頃の義父は煙草はやらず、酒はお祝い事のある日くらいにビールをコップ1杯空ける程度、食事もごく少食で、ゴルフなどで可能な限り身体を動かすことが好きだった。そんな義父は6年前、肺がんを患ってこの世を去った。 

事程左様に、病気の原因は特定することが難しい。百歩譲って、本当に過度の飲酒や食生活の乱れといった原因のみによって生活習慣病にかかったのが明らかな人がいたとしよう。その人は、なぜそのような乱れた生活に陥ったのだろうか。過酷な労働、ストレス、貧困―仮定の話であっても想像は色々とつく。件のフリーアナウンサー氏は自分の言う「自業自得の透析患者」を童話「アリとキリギリス」に登場するキリギリスにすらなぞらえていたが、これは世間知らずと言われても仕方のない想像力の欠如だ。

件の記事が炎上し、レギュラー出演番組からの降板が発表された後、フリーアナウンサー氏はブログに謝罪記事をアップした。この中で、彼はこう述べている。

ご自身に何の落ち度もない患者さん
透析まで至ってしまっても、心を入れ替えて、真摯に治療に当たっている患者さん

そんな皆様にいらぬ偏見を植え付け、下らない誹謗中傷を誘う可能性のある内容であったことは間違ない話なのだと思います。

この期に及んで、まだ「良い患者」と「悪い患者」の峻別ができると言っているのである。患者の人生の価値を自分が判定できると言っているに等しい、あまりに傲慢、そしてあまりに無恥な考えではないかと思う。こんなことを40歳を過ぎた、それなりに社会的地位もある大人が言っているのだから、ちょっと絶望してしまいそうではないか。

 

この騒動にまつわる色々なネット記事を巡っていて、ズイショさん( id:zuiji_zuisho )という方の記事にとても頷かされることが多かったので引用する。

zuisho.hatenadiary.jp

先日、「私たちは複雑さに耐えて生きていかなければならない」というタイトルのブログを書いたのだけど*1つまりはそういうことで、結局世の中のたいていの炎上・失言・暴走した正義ってのは、複雑さに耐えられずに音を上げて本来複雑である問題を単純化して極論を振り回していることを咎められているのであって、一部が正しいのは当たり前といえば当たり前、というか一から十まで本当に何から何まで全部間違ってることを言うのって小学校に行って一応の読み書きを習得してしまった人間にとってはそっちの方が逆によっぽど難しい。

※太字は筆者。

ズイショさんが別の記事のタイトルにしている「私たちは複雑さに耐えて生きていかなければならない」とは、1998年にニューデリーで開かれた国際児童図書評議会の基調講演で美智子皇后が仰った言葉だそうだ。下記はその原文。

第26回IBBYニューデリー大会基調講演 - 宮内庁

戦争や政治、自然災害や環境問題など、世の中のあらゆる問題は、どちらが善か悪かで解決できる問題ではない。いや、そんな大きな話でない、ひとりひとりの家庭内の問題でさえそうだ。あちらを直せばこちらが飛び出す、まるで組み付けの良すぎる箪笥みたいに。

もちろん、仕事の現場などでは、できるだけ短時間に白か黒かの判断をつけなければならない瞬間が往々にしてあるのはみんながよく知っていることだ。ただそれは、これから数日とか1か月とか1年とか、いわゆる当座を乗り切るための応急対応であるということが、意外に忘れられている気がする。その応急対応が問題の本質的解決につながっていないことを忘れず、その苦さを口の中に常に感じながら、あちらに飛び出した問題を直し、こちらにまた飛び出してきた問題に取り組むという日々が、複雑さに耐えて生きるということの一つの形なのかもしれない。

単純明快でちょっとばかり過激なソリューションの提案は人を引きつける力があるし、特に追い込まれた人ほどそんな解決策に飛びつきたい心情も理解できるけれど、それは本質的解決につながらないばかりか、問題をこじれさせることすらある。そのことをかなり強烈な形で教えてくれたのが、5年前の震災であり原発事故であった気もしている。

 

複雑さに耐えて生きる。自分が生きることをそういうふうに捉えてみるとやはり、私には他人がそれなりに時間をかけて考えてきた成果を「こんなのダメだよ」と放り投げることはできそうにないし、世の中の(たぶん)複雑な背景を持つ問題を一刀両断に断言する蛮勇も持てそうにない。だが、きっとそれでいいのだと思う。

大学のいいところをあの手この手で伝える

ブログの更新を1ヶ月半もサボるという暴挙。新たなインターネット廃屋をまた一つこしらえるところだったわ。

ということで。

 

螢雪時代10月号、好評発売中です。よろしくお願いします。

www.obunsha.co.jp

 

小誌の記事には社員編集者が自分で書くもの、取材から誌面の仕上げまで外部のライターさんやエディターさんにお任せするものといろいろある。その中で、私は大学の学部長や学長へのインタビュー記事を毎月1本担当している。アポ取り、取材、写真撮影、原稿起こしから入稿作業まですべて自前作業なのでなかなかに時間を取られる仕事ではあるが、デスクに縛り付けられる日常からつかの間解放されて全国各地の大学へ赴くひと時は良い気分転換にもなるし、その部分だけを採ればありがたい境遇ではあると思う。

先日はこの記事の取材もコミの仕事で北海道を訪れていた。天候にも恵まれて、良い取材旅行となった。中でも北海道大学キャンパスのすばらしさといったら、これは文章で端的に表すことが難しいのだけれど、きっと北大生の人格形成に大いに好影響を与えるものであろうと実感させる風景だった。

その北大が、財政問題で揺れている。

elm-mori.hatenablog.com

まだ提案の段階ではあるし、上記記事は教職員組合のスタンスで書かれたものであるという前提に立って、「教授205名分」という数字が独り歩きしないよう心がけたいと思う。とはいえ、やはり衝撃的な数字ではあるし、日本でトップクラスの国立大学からこういう話が出てくるところに問題の深刻さはある。

大学進学を志す若者たちに学ぶことと場所の魅力、そしてそこへたどり着くための方法を伝えることを仕事にしている人間として、こういうニュースは実に辛い。それでも、彼らが学び、未来を創っていく場所を守るためにも、「伝える」ことはありとあらゆる方法で続けていかなければならないと思っている。

 

flic.kr

北海道から戻ってきてすぐ、個人のflickrアカウントに上のようなアルバムを設置した。知らない人から見ればただの風景写真だが、受験生が自分の未来予想図を描くイメージづくりの一助になれば幸い。

 

進撃の「20世紀末少女」

螢雪時代9月号、8月12日発売です。よろしくお願いします。

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さて。螢雪時代とは何の関係もないが、明日8月6日から国営ひたち海浜公園ROCK IN JAPAN FES. 2016が開幕する。私も7日(日)の回に行く予定なのだが、実は初日のチケットが取れなかったことを激しく悔やんでいる。初日のメインステージには誰あろう、あのBABYMETALが登場するからだ。

私はもともと、アイドルの類にはほとんど興味を持ったことがない。『イジメ、ダメ、ゼッタイ』のMVを初めて観たときは「こいつらはふざけてるのか?」と思ったくらいだが、気がついたらあの3人の女の子たちと白塗りのバンドメンの虜になっていたのである。

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私は、世間のドルヲタの皆さんが好きなアイドルをどんな感情で見ているのかよくわかっていないが、どうも自分は、なんだか娘の成長を見守る父親のような気持ちでベビメタの快進撃を見ている気がする。

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すでに2年前の映像だが、ちょっと前まで小学生だった女の子たちが外国に飛び出し、顔に闘志をみなぎらせて大群衆に立ち向かっていくのを目の当たりにして、おじさんは胸が詰まって涙がこぼれそうになってしまったのだ。ちょっとそこの人、気持ち悪いとか言わないでください。

BABYMETALについては、まがいものだとか、女の子たちが大人たちにアーティストを演じさせられているだけだとかいったネガティヴな評価がつきまとうことも知っている。しかし、やはり本人たちに相当なモチベーションがなければこれほど完成度の高いパフォーマンスはできないだろうし、世界を戦い抜くエネルギーも生まれないだろうと思う。また、どんな形であれ、いまや「伝統芸能」と揶揄されるほどに草臥れたジャンルとなってしまったヘヴィメタルに、いい意味である種の混乱と新しい風を吹き込んだのが彼女たちであることは間違いない。

 

話をちょっと仕事の方に戻すが、小誌9月号では巻頭特別インタビューとしてドラマーの川口千里さんに取材をさせてもらった。10代前半からプロとして活動していたが、YouTubeに上げたプレイ動画が世界中で話題になり、活躍の場を広げるきっかけにもなったという。

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(このとんでもなくすごい16歳の女性ドラマーには驚いた。俺が聴いた中で最高のドラマーのひとりだよ)

 

 上は、彼女のプレイをYouTubeで見たトム・モレロ(Rage Against the MachineAudioslaveなどの活動で知られるギタリスト)の一言。

現在早稲田大学の2年生でもある彼女がプロミュージシャンと受験生の二足のわらじを履きながらどんなことを思っていたのか、そのあたりはぜひ小誌9月号をご覧いただければと思う。

 

川口さんは1997年生まれ。BABYMETALのリードヴォーカルを務めるSU-METALこと中元すず香と同い年だ。YouTubeがきっかけでブレイクしたという点でも共通している。もしかすると、物心ついたころからインターネットが当たり前のように使われる生活を経験してきた彼女たちにとって、国境を越えて世界へ飛び出すことは、私たちの世代が感じるよりずっと軽いステップなのかもしれない。

人間、歳を取ると暗い話ばかりしたがるようになるものだが、かつては人類滅亡の日と噂された20世紀末に生まれた女の子たちが、国境も言葉の壁も涼しい顔をして飛び越えて行くのを見ると、未来に期待するのもそれほど悪いことじゃないような気がしてくるし、行く末を最後まで見届けたい気分にもなってくる。

ということで、じゃ、明日も頑張って生きていきましょう。

 

 

「意識高い」ってどういうこと?

螢雪時代7月号』好評発売中です。よろしくお願いします。

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7月号の特集テーマは「苦手&弱点攻略法」。夏に向けて学力の穴をカバーしたい受験生の皆さんの参考になることを願う。

さて、メインの特集については本誌をじっくりお読みいただくとして、ここで第2特集で、大学のクラブ・サークルを取り上げた記事について触れておきたい。これも詳細は本誌を読んでね(笑)

私が担当したのは、早稲田大学ラオスへの教育支援に取り組む学生プロジェクトの取材。会の中心的な役割を務める3人の学生さんに、プロジェクトに入ったきっかけや活動の魅力についてお話を伺った。

現地の子どもたちの笑顔を見る喜びや困難な出来事を乗り切ったときの達成感など、私は自分のゴミのような学生時代を思い出しながら何だか申し訳ないような気持ちで話を聞いていた。

 

ちょっと話は変わるが、私には世の中を見ていて「こりゃネーミングを誤ったなあ」と思う言葉がいくつかある。そのひとつが「意識高い系」という言葉だ。

勉強やビジネススキルの習得、人脈づくりなど自分を磨くことに熱心だが、その目的が就活での自己アピールや優越感ゲームなど、あまり生産的でない方向に向いている人―というのが自分の中での「意識高い系」の解釈で、まあそういう人いるよねというのは確かに思うのだが、この言葉を使われる方からは「前向きに努力している若者をバカにするな」と反論が上がり、かたや「地道に生きてるサラリーマンをバカにしてるのは意識高い系のほうだろ」と罵り合うというなんとも不毛な状況が生まれているのは、「系」の1文字に語義の重みを乗せすぎているこの言葉のネーミングの問題なんじゃないかなあと常々思っている。そして、本来であれば世の中や自分自身のために役立つはずの知識やスキルや人脈を「自分飾り」にしか使わない若者がいるとするならば(いるんだけど)、それは本人の問題というよりも、そういう方向に彼ら彼女らを唆す「わるい大人」の存在に問題の根があるんじゃないかということも、考えに添えておかねばならないと思う。

 

話を戻す。私が早稲田で出会った3人の学生さんたちは、ほんとうの意味で、意識の高い若者たちだった。意識が高いというよりは、自然に意識が高くなったというほうが正確かもしれない。メンバーの一人は、軽い気持ちで始めたこの活動がきっかけになって、いま、東南アジアで働くことを視野に入れた進路を組み立てているという。
小誌の編集体制として、そういう学生さんに出会いやすいバイアスがあることは自覚している。それでも、そんな若者たちが少なからず存在するというのはたまらなく喜ばしい事実だし、その方向に少しでも光を当てることは、ハメを外した様子をTwitterにうpして炎上している学生を悪目立ちさせるよりなんぼかポジティヴだと思うのだが、メディアに携わる皆さんはどう思うだろうか。